NorGold (Norton Gold Star)
John Tickle
BSAゴールドスターのエンジンをノートンのフェザーベットフレームに載せたハイブリッドマシンをノーゴールドと呼んでいます。
ハイブリッドマシンで一番認知されているのはトライアンフのエンジンを積んだトライトンでしょうね、トリトンと呼ばれた時期もありました。
BSAとは、バーミンガム・スモール・アームズ社という銃器の製造会社の頭文字をとった名前です。
オートバイの製造はBSAの一つの部門でしかありません。
BSA ゴールドスターはB32(350cc)、B34(500cc)の2バルブOHV単気筒エンジンです、ゴルディーの愛称で呼ばれています。
クラブマンレースのマシンとしての運命を授けられたプロダクションレーサーマシンがBSAゴールドスターです。
1937年、エンパイアスターM23(500cc)がブルックランズサーキットで1周ラップ107.57マイル、レース平均102.27マイルの記録でゴールドスター賞を獲得しました。
この賞を記念し1938年にM24(500cc)のゴールドスターモデルが発売されました。
ゴールドスターの頂点は1949から1956年までのクラブマンレースの最高峰、マン島TTレースのクラブマンクラスでの活躍です。
この間の350ccクラスでは全戦1位の座を8年連続して獲得しています。
500ccクラスでも1953〜1956年4年間、連続1位を勝ち取りました。
この時代350/500ccクラスのゴールドスターは、クラブマンクラス出場車の90%以上を占めていたようです。
プライベーターに圧倒的に支持され、まるでワンメークレースですね。
これが災いしたのか、勝ちすぎたのか、1クラス上のGPクラスに格上げされました。
ステンマルクが勝ちすぎてルール改正が行なわれたスキーのワールドカップを思い出します。
このクラスはマンクス・ノートン、AJS 7R、マチレスG50等です、流石にワークスマシンには勝てませんでした。
初代ZB32,34から最終型のDB,DBD32、34まで歴代のゴールドスターは素晴らしい活躍でした。
1950年代のマン島TTにおける圧倒的な勝利、1954デイトナ200マイル、1956カタリナGPの表彰台独占もありました。
国内では高橋国光もゴールドスターで浅間火山レースを勝っていますね。
輝かしい活躍をしたゴールドスターなのに何故ノーゴールドなのでしょう。
トライアンフのボンネビル(T120)をフェザーベットフレームに積んだのにはそれなりの理由があります。
トライアンフ社があまりレースに熱心ではなかった辺りにその鍵がありそうです。
トライアンフのフレームはボンネビルのエンジンに対して余りにも非力でした。
剛性不足です。
対してゴールドスターのフレームはエンジンに負けないしっかりしたフレームに搭載されていました。
ノーゴールドは当時からそう多くは作られてはいないようです。
国内では、私のノーゴールドを含めて3台確認しています。
モーターサイクルのレーシングマシンの歴史上、ノートン・マンクスがもっとも有名なレーシングマシンです。
1950年代からフェザーベットフレームで伝説的な名声を得ています。
ジェフ・デュークによって1950、51年とワークスとして2年連続メーカーチャンピオンを獲得しています。
世界GP500ccチャンピオンの獲得は1950、51年との2度だけなのですが、レーシングマシンとしてマンクスの第1線での活躍は1960年代後半にまで及びました。
1960年世界GPで23戦中21勝というMVの圧勝に一矢を報いたのもノートン・マンクスでした。
多くのプライベート・ライダーを育て、500ccクラスで最も多くのエントリーを受け長く愛されたイギリスの誇る名車です。
マンクス・プロダクションレーサーは1961年にその生産が終了しています。
1965年にノートン他AMCレーシングモーターサイクルの製造権はコリン・シーリーに移っています。
この時代シーリー製プロダクションレーサーが多くのプライベーターに支持されています。
コリン・シーリー・レーシング・デベロップメンツですね。
AJS/マチレスのエンジン7R/G50を独自のフレームに搭載していました、シーリーフレームです。
しかしシーリーはマンクスには手を付けず、その製造権をJohn Tickle(ジョン・ティックル)に譲り渡しました。
ジョン・ティックル、彼はモーターサイクルレーサーでした。
膝の怪我でサイドカーに転向後も妻をパッセンジャーとして1965年まで多数参戦していました。
競技からリタイヤしエンジニアリング・ビジネスに転向しました。
レーシングモーターサイクルデザイナーですね。
パーツビルダーとして世界的にメジャーな方です。
JOHN
TICKLEのレプリカもありますから・・・・・・
ヴェロセット用の2リーディングブレーキの開発が一番メジャーでしょうか。
5,6速ギアボックス、クリップオンハンドル・・・・・
全て現代に通ずるボルトオンパーツ・マニュファクチャラーの先駆けです。
ウオータースポーツ関連のアイテムも多数手がけています。
ヨット用パーツ、競泳用イクイップメントを生み出しています。
クラッシックヨット、スイマー用ノーズクリップ等が現代でも見られます。
ジョン・ティックルは1969年にコリン・シーリーからDOHCマンクス・ノートンの製造権を買い取りました。
この時、大量のスペアーパーツと共に治具、工具等も一緒に買い取っています。
一説には7トンとも云われています。
350cc、500ccのマンクス・ノートンの生産を始め、翌1970年にティックルはマンクスを送り出しました。
ティックル・T5マンクスです。
ノートンの名は入っていません。
かつてシーリーがAJS/マチレスの名を用いることを許されなかったように。
ティックル・マンクスはオリジナルのノートン・マンクスとは相違があります。
フレーム材質が531からより軽量なレイノルズT45クロームモリブデンチューブに変更されています。
フレームはシーリーの影響を受けているかのようにメインフレームがシートレールに一直線に伸びています。
ギアボックスはオリジナルのAMC4速に換え、ティックルが開発した5速若しくは6速が載せられています。
ガードナー製のレーシングフラットスライドキャブレターも載っています。
現在のレーシングキャブレター、FCRの本家ですね。
このときのDOHCエンジンは後期型マンクスと同じ86×85.6mmです。
レブリミットは7200rpmから8000rpmに高められていました。
1971年には91×76mm、そして91.4×76mmとショートストローク化されています。
バルブ径の拡大、ショートストローク化によるコンロッドの短縮化も図られていました。
パワーバンドの拡大、レブリミットは8400rpm。
もうノートン・マンクスとは別のティックル・マンクスと呼ぶのが相応しい進化です。
1973年までの間に製造されたティックル・マンクスはT3(350cc)、T5(500cc)、T6(650cc)は僅かな台数でしかありません。
一説によればT5の生産台数は10〜20台と云われています。
国内にその貴重なT5マンクスが1台あります。
その後ティックルはユニティ・エクイップにマンクスエンジンの製造権を売却しています。
サイトのノーゴールドはそのジョン・ティックルの手によるものです。
このノーゴールドのトップブリッジにはJOHN TICKLEの銘板が付いています。
市販パーツは刻印だけですが、トップブリッジにプロダクタプレートを付けたのは完成車だけと聞いています。
楕円のProducerPlateには下記のような記載があります。
JOHN TICKLE Co
Present by John
Tickle
John Tickle (Manx Motorcycles)
最高のエンジニアによる最高のフレームに最高のOHV単気筒エンジン、ある意味究極のハイブリッドマシンですね。
残念ながらジョン・ティックルは2000年5月14日、心臓疾患により他界してしまいました。
夢をありがとう。
ご冥福をお祈りいたします。